北浜ナビ

江戸時代初期から商業経済中心地帯として発展した大阪・北浜。
今なお、その面影を残しながら繁栄している北浜の街を御紹介致します。
日本銀行 大阪支店
日本銀行 大阪支店
江戸時代から明治初期にかけての大阪経済
江戸時代、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本における経済の中心的な役割を果たしていました。運河が整備された「水の都」である特徴を活かし、海運・水運により日本各地から物資が集められ、商業が発展しました。また、各地の大名諸藩の多くは、現在、日本銀行大阪支店のある中之島に蔵屋敷を設け、年貢として納められた米を金銭に替え、藩の財政を運営していました。
このため、現在の銀行に相当する両替商が数多く大阪の地に集まっていたほか、堂島には米の取引所(堂島米会所)が設立されました。この取引所は、先物取引という高度な取引手法を世界でおそらく初めて導入したことで知られています。江戸時代の大阪は日本のマネーセンターでもありました。
幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨て(両替商や商人が大名に貸付けていたお金の大部分が返済されませんでした)などから、大阪経済は一時衰退しますが、その後、多くの近代企業や銀行が設立され、大阪は再び経済的な輝きを取り戻していきました。
大阪支店開設
復活を遂げた大阪は、明治10年(1877年)頃までには、工業生産額で東京の約3倍を誇る経済都市となっていました。日本銀行は、明治15年(1882年)10月10日に本店が設立されると直ちに、大蔵卿(現在の財務大臣)の松方正義に対して大阪支店の設置を願い出ました。その結果、本店設立のわずか69日後の12月18日、旧東区今橋5丁目(現在の大阪倶楽部の場所)に大阪支店が開設されました。
初代大阪支店長には、外山脩造が就任しました。外山は、大阪で経済を一層発展させるためには手形割引の普及が必要であると考え、大阪支店の手形割引レート(いわゆる「公定歩合」)を本店よりも低く設定するなどして、市中の銀行に手形割引を奨励しました。こうした施策もあって、大阪支店の手形割引量は急増し、明治17年(1884年)には、日本銀行全体の手形割引枚数の約9割、金額の約6割を占めるほどになりました。
中之島への店舗移転
現在の大阪支店は中之島にありますが、支店開設以来、2度、移転を行っています。開設当初の店舗は敷地が小さく、金庫のための十分なスペースがないなど営業上の不便が多かったため、開設から2年後の明治17年(1884年)に、旧東区大川町(現在の三井住友銀行の場所)に移転しました。その後、経済の発展とともに支店の事務量が増えていったため、2度目の移転を行うことになりました。その結果、中之島の地が選定され、明治36年(1903年)に移転しました(表紙の写真)。現在の旧館は、その時に建築されたものです。日本銀行本店の旧館と同様、明治を代表する建築家である辰野金吾の設計によるものです。
現店舗のある地は、江戸時代には水戸藩や島原藩などの蔵屋敷があった場所であり、明治に入り郵便役所(現在の郵便局)となったあと、大阪商工会議所や大阪証券取引所を設立したことで知られる五代友厚の私邸などを経て、今日に至っています。
現在の店舗の建設
大阪支店の店舗は、旧館の復元・改築工事と、同時に行われた新館の建築を経て、昭和57年(1982年)に現在の姿となりました。築後80年を経て老朽化が進んでいた旧館は、もともと取り壊される予定でした。しかしながら、当時の大阪市民や文化庁からの強い保存要請を受け、可能な限り面影を残す形で改築工事が行われました。御堂筋側から見える東、北、南側の外壁のほか、中央のドームとその両側に配置された三角屋根は、往時の姿をとどめています。
新館の設計に際しても、屋根や窓回りには旧館と同様の銅板を用いるなど、旧館との調和が重んじられました。このほか、新館正面入り口の窓には反射ガラスを使用し、旧館のドームが美しく映えるような工夫を施しています。
こうした景観維持のための取り組みが評価され、昭和58年(1983年)に「第3回大阪都市景観建築賞」を受賞しました。
大阪市役所
大阪市役所
本庁

本庁の入居する大阪市庁舎は、大阪市の中心部、中之島に位置する。御堂筋の東側に位置し、正面には日本銀行大阪支店が位置する。市役所の東側には中之島図書館や大阪市中央公会堂、東洋陶磁美術館がある。
市役所の南側には淀屋橋が架かっており、また最寄り駅も淀屋橋駅であるため、市役所に行くことを「淀屋橋に行く」と表現されることもある。ただし淀屋橋より南側は中央区である。
現在の庁舎は1986年に完成したものである。
大阪市庁(旧庁舎)
三市特例が廃止された翌年の1899年、当時の大阪府庁舎(現在地に移転する前の大阪市西区江之子島の旧庁舎)の北側(現在は高層マンションなど)に設けられた、1912年に堂島浜(現在はNTTテレパーク堂島第一ビル)に新庁舎が建設された。
設計を公募し、10年の歳月をかけて、1921年には、中之島に庁舎が完成。塔屋までの高さ約56mと、当時は市内最高の高さだった。鉄筋5階建てで、中央にホールがあり、四方に玄関、正面玄関には4本の円柱が立ち、ルネッサンス風の塔は市の象徴となった。
1982年に新庁舎建設のため取り壊された。
半分に分けての建て替えだったため、現在でも屋根にその名残が残っている。また、市役所1階には「大阪市廳」と書かれた札が展示されている。
特徴
大阪市内の都市計画を主に進めていたのも大阪市役所である。これは政令指定都市制度を根拠としたものである。ただ、府から市への権限移譲・税源移譲が中途半端であったため、のちに二重行政の弊害を生んだ。組織の中枢となる幹部職員を京都大学、大阪大学や大阪市立大学の出身者を中心に固め、中央省庁との人事交流が少ない。そのため、「中之島モンロー主義」と揶揄されることもある。
特に、土木技術職の副市長・局長級といった幹部ポストは京都大学工学部卒業生で多くを占められている。
大阪府立中之島図書館
大阪府立中之島図書館
蔵書数は約55万冊。東大阪市の大阪府立中央図書館が一般書から学術書まで幅広い分野の本を所蔵しているのに対し、中之島図書館は古文書や大阪関連の文献、ビジネス関係分野の書籍・資料に特化している。1904年(明治37年)竣工の建物は重要文化財に指定されている。
沿革
住友家により建築、寄贈され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。
大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国の重要文化財に指定されたのはこの年である。
1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館。これに伴い、中之島図書館の一般蔵書の大半と夕陽丘図書館の蔵書約60万冊(特許資料関係を除く)を中央図書館に移設。両図書館で収集してきた内外特許資料・科学技術資料は、閉館した夕陽丘図書館の建物を流用して新設された大阪府立特許情報センターに移された。
2004年から、中之島図書館はビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始。別館では、関西大学が法科大学院のサテライト教室として「リーガルクリニック」授業を開講し、大阪府立大学大学院看護学研究科及び同総合リハビリテーション学研究科が社会人向けにサテライト大学院を開講している。 大阪市はこれまで「図書館としての機能を果たす限り土地を無償貸与する」との誓約を結んでいたが、これらの事業展開は本来の図書館から逸脱しているとして、土地使用料の徴収を開始した。
ただし、2003年から施工されていた京阪中之島線事業に伴い、同線が北区中之島1丁目地内を通過することから用地調査が行われたところ、中之島1丁目地内の地籍図が混乱しており、その中に中之島図書館が存在する場所に該当と思われる大阪府名義の「北区中之島1丁目3番」の土地が存在することが判明している。その後大阪市公文書館から市有地との交換を証明する資料が発見され、「北区中之島1丁目3番」の土地が大阪市名義である事が確定した。
建築
1904年にネオ・バロック様式で建てられた建物は、1922年に左右の両翼を建て増しし、現在の形となった。本館は大阪大空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫の増築を経て、今も残っている。1974年、本館と左右の両翼が共に国の重要文化財に指定された。
建物の改修と活用
2012年6月19日、大阪府知事の松井一郎と大阪市長の橋下徹による府市統合本部の会合で、中之島図書館を廃止することを表明したと報じられたが、図書館を管轄する大阪府教育委員会によると、今後建物をどう活用するかの案の一つとして出ただけで、実際には何も決まっていなかった。
2013年11月20日、松井知事が会見で「図書館機能を堅持しつつ、魅力あるものにする」と中之島図書館の存続を表明。2014年まで耐震補強と外壁リニューアル工事を行い、2015年4月から利用が再開された。
上記方針に基づき、図書館を中之島地区の文化ステーションとしての役割や利用者サービスを向上させるため、2015年に指定管理者制度を導入。株式会社アスウェル(大阪府羽曳野市)を選定した。雑貨や文具などを販売するライブラリーショップが充実されたほか、デンマークの郷土料理の1つであるスモーブローを提供するカフェ「スモーブロー キッチン ナカノシマ」が併設された 。スモーブローを専門に提供する店としては、西日本で最初の店舗となる。
大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂
概要
大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。なお、公会堂の所在地は浜田藩の蔵屋敷跡になる。
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインを始め、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演も行われた。
日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。リニューアルの際に取り除かれた当初の意匠についても、一部は保存・活用されており、内装の一部に旧館の遺構をはめ窓のようにしてみせるなどしている。また、周辺道路と敷地を隔てる境界にも、遺構が利用されている。
2006年からは、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督大植英次がプロデュースする同交響楽団を中心とした音楽祭「大阪クラシック」の有料コンサートの会場として、毎年ホール(大集会室)と中集会室が提供されている。2010年5月1日に100年ブランドをめざして、公式ホームページが開設された。
2020年東京オリンピックの聖火リレーで、大阪府最終日の4月15日のゴール地点でセレブレーション会場となった、聖火ランナーの公募は44名に対して8395名の応募があり、倍率は約190倍であった。
大阪市立東洋陶磁美術館
大阪市立東洋陶磁美術館
概要
高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝2件、国の重要文化財13件を含む約4000点が収蔵されている。この珠玉のコレクションは、安宅コレクションを中心に、他のコレクションからの寄贈や購入を加えて、徐々にその数を増していったものである。
安宅コレクションは、大手総合商社の安宅産業および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものである。発端は、近代日本画の速水御舟の作品を収集していた演出家、文芸評論家の武智鉄二が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案。1951年(昭和26年)の同社取締役会で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議。以後、御舟の代表作である「炎舞」、「翠苔緑芝」、「名樹散椿」がコレクションに加わり、最終的には日本画30点、素描76点、計106点に上る日本最大のコレクションに成長していく。
英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、他のコレクターの名品も次々と安宅コレクションに加えていった。その総額は二十数年間で七十数億円にも上る。そのため特に初期には、世間から金にあかせて買いまくっているという批判も強かったが、実際には異なる。あくまで会社のコレクションのため、購入には月々の購入限度額が決まっており、会社の了解を取らねばならなかった。名品が出てきた時には資金を1年先、2年先まで先食いしていたのが実際の所で、これが改善されたのは会社の景気が良くなった昭和40年代後半頃だという。
安宅産業は1975年(昭和50年)に経営危機が発覚。1977年(昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併された。
伊藤忠商事が引き受けない残存財産のうち、2000億円余りを主力銀行の住友銀行(現:三井住友銀行)を含め、取引16行が合併前日に一斉償却した。また残る約3000億円に関しては、合併に先立って、受け皿会社のエーシー産業を1977年4月に設立。この折に鑑定評価額が当時で152億円にもなった約1000点の東洋陶磁コレクションも、ひとまず同社が引き継いだ。なお速水御舟の作品106点は、合併の前年9月に、一括して山種美術館を運営する山種美術財団に購入してもらっている。この東洋陶磁コレクションの帰趨については、文化庁をはじめとする関係各方面から、貴重で体系的なコレクションを散逸させることなく、保存に善処を望む要望が数多く寄せられていた。
そうした要望を踏まえ、1980年(昭和55年)3月に磯田一郎住銀頭取は公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断し、大阪市への寄贈を決めた。また市の負担を回避するために、住銀を中心とした住友グループ21社の協力のもと、1982年(昭和57年)3月までの2年間に、総額152億円を市の文化振興基金に寄付。市はその寄付金で965件、約1000点のコレクションを買い取ることにした。またコレクションを収蔵・展示するため、市は中之島公園内に美術館の建設を決定するが、その建築資金18億円は、基金への寄付金の積み立てに伴う運用利息で賄った。
詳しい経緯は、英一の側近で初代館長の伊藤郁太郎が、『美の猟犬 安宅コレクション余聞』で回想している。伊藤によると、英一は経営危機でコレクションへの発言権を失っていく最中に、「会社のためなら、安宅コレクション一切を投げ出してもよいのですよ。それで会社が救われさえすれば…」と漏らしていたという。また、美術館開館後に訪れた英一に、伊藤が「あれほど一生延命お集めになったコレクションが、人出に渡ってしまって、さぞお口惜しいことでしょう。お気落としになっておられるでしょうね、と慰めて下さる方が多いです。」と言うと、英一は「コレクションは、誰が持っていても同じでしょう」と答え、コレクションがどのような結末を迎えようが、コレクションとして続く限りその価値は変わらないという、英一のコレクターとしての境地を示している。
寄贈された安宅コレクションは965件で、その内訳は以下のとおりであった。
- 中国陶磁 144件(後漢2、六朝1、唐23、五代3、宋47、元18、明50)
- 朝鮮陶磁 793件(統一新羅時代4、高麗304、朝鮮時代485)
- その他 28件(ベトナム陶磁5、日本陶磁2、中国工芸5、朝鮮工芸10、日本工芸その他6)
朝鮮陶磁は数も多い上に作風も多様で、今日成し得るコレクションとしては歴史的変遷、陶芸技法による分類の上でもほぼ完全で、私的なコレクションとしては世界第一と言って良い。一方、中国陶磁については名品主義的で質は極めて高いが、清代陶磁が1点もないなど陶磁史的には不完全である。また、展示公開は厳選主義で行っているため、安宅コレクションは名品ばかりと思われている面もあるが、実際にはあまり人に見せたくない作品も混じっているという。
1982年(昭和57年)に美術館の開館した後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、特に1999年(平成11年)には在日韓国人実業家李秉昌からの寄贈で、多くの朝鮮陶磁の名品が所蔵された。
中之島公園
中之島公園
概要
大阪市の都心部、中之島の東部に位置する。周囲一帯はオフィス街で、都会の憩いの場となっている。
難波橋と阪神高速1号環状線の間にはバラの花壇が設けられ、春や秋にはバラの花が咲く。また、南北方向に水路が流れ、東西にバラ園(2009年の改修まで東側は円形バラ園)があり、ばらぞの橋が架かっている。なお、この水路はちょうど天満堀川(現在は埋立。阪神高速12号守口線)の延長線上にあたる。
天神橋より突き出た東端部は、大川を堂島川と土佐堀川に分けて尖っていることから「剣先」と呼ばれ、先端には安藤忠雄の構想による噴水が設置されている。
天神橋
天神橋
概要
天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天神橋1丁目と大阪市中央区北浜東を結ぶ。中之島の拡張(後述)により、実質的には堂島川と土佐堀川の2つの川を渡る。車道は全線南行き一方通行となる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。
明治初期までは木橋だったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。1888年(明治21年)にドイツ製の部材を主に用い鋼製のトラス橋として架け替えられた。先述の童歌からもわかるように、天神橋の下に陸地はなかったが、大正時代の1921年(大正10年)に大川の浚渫で出た土砂の埋め立てをする土木工事があり、1920年代以降に上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7メートルの3連アーチ橋となった。鉄橋の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されている。
天神橋南詰には、天神橋交差点があり、ここより北を天神橋筋、南を松屋町筋という。大阪シティバスの天神橋停留所もここにある。
大江橋
大江橋
概要
大阪市北区西天満2丁目および堂島浜2丁目と同区中之島を結ぶ、御堂筋(国道25号)に架かる橋である。鉄骨鉄筋コンクリート造りのアーチ橋で、橋長81.5メートル、有効幅員37.0メートル。なお、Osaka Metro御堂筋線が大江橋の地下を通過している。
沿革
歴史的には江戸時代の元禄年間、堂島の開発に伴って架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうちの1つである。1909年に大阪市北区の一帯を襲った北の大火で焼失。翌1910年に復興と市電の開通に伴い、鉄橋として架け替えられた。
現在の大江橋は、大阪市の都市計画の一環としての御堂筋の拡幅工事に伴い、1930年に着工し1935年に完成した。架け替えに先立ち、すぐ南側の土佐堀川に架かる淀屋橋とともに、1924年に大阪市の第1次都市計画事業で公募された、鉄筋コンクリート造りのアーチ橋ながら、パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第1次都市計画事業の目指す所を現代に伝えている。このことが特に評価され、2008年には「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリートの橋としては珍しく重要文化財に指定された。
水晶橋
水晶橋
歴史・文化
水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。
水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。
水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。
鉾流橋(ほこながしばし)
鉾流橋
歴史・文化
天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられているため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。
天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。
現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。
その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。
淀屋橋
淀屋橋
概要
橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。
現在の橋は都市計画学者でもあった關一第7代大阪市長による御堂筋拡幅工事の一環として、1935年(昭和10年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋である。淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたものである。
パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第一次都市計画事業の目指すところを後世に伝えている。2008年(平成20年)には、「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリート橋としては珍しく重要文化財に指定された。
橋の近くには「淀屋橋港」があり、水上バス「アクアライナー」が就航している。
栴檀木橋(せんだんのきばし)
栴檀木橋
歴史・文化
江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、船場との連絡のために土佐掘川には多くの橋が架けられていた。栴檀木橋もそうした橋の一つであった。橋名の由来は『摂津名所図会』ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとしているが、詳らかではない。
明治になっても木橋のままであった栴檀木橋は明治18年の大洪水で流失した。再び架けられたのは大正3年のこととされる。これは明治37年に、大阪府立図書館が建てられ、明治末には大阪市庁舎の建設が決定されるなど、橋が再び必要となっていたためであろう。
その後、昭和10年に架け替えられた橋は桁の高さが一定のシンプルな美しさを強調した設計であったが、当時の設計者はこれを理想としていたようである。昭和60年9月、新しい橋に架け替えられたが、旧橋のイメージを大切にしながら橋面などは府立図書館や中央公会堂など、背景にある歴史的建築物との調和を考えてデザインされた。
また、センダンノキをモチーフにした欄間パネルが取付けられている。由来碑と大正時代の親柱は橋梁の橋詰に設置され、橋の歴史が一目でわかるようになっている。
難波橋
難波橋
難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる堺筋の橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁では「ナンニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜と北区西天満を結ぶ、全長189.7m、幅21.8mの橋である。中之島の拡張(後述)により、実質的には土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
歴史・概要
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。
1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に北半分のみ鉄橋に架け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中之島を跨ぐかたちとなっている。1885年(明治18年)に発生した明治十八年の淀川洪水の際には北半分の鉄橋は被害を免れたが、南半分は木製であったために流された。
なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は中之島公園となった。
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの新橋が現在の難波橋である。
当初は難波橋筋に架かる旧橋と区別するため、堺筋に架かる新橋は大川橋とも呼ばれた。新橋は当初中之島を跨いでいなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。中之島通敷設の際に旧橋は撤去され、新橋は名実共に難波橋となった。
老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修が施され、現在に至る。
橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(=ライオンの石像、天岡均一作)が左右両側にあるため、「ライオン橋」とも呼ばれている。このライオンは天王寺動物園の当時非常に珍しかったライオンがモデルと言われている。像は左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像となっており、狛犬(狛犬はライオンがモデルといわれる)の形式を採った獅子=ライオンであると言える。これについて、江戸時代この地に白玉稲荷神社(豊国神社)が祀られていたためであるとの説もあるが、直接の関係はないとされる。相場師として成功した松井伊助の和歌山の別荘六三園には松井が複製した像があることから、松井の寄付によるとの説もあるが、子孫はこれを否定している。
像は、当時の池上四郎大阪市長が天岡均一に依頼して作られた。
中之島水上公園計画の一環として設計された事により、石橋風の外観、公園と一体となった階段、高欄の獅子像、親柱にはペディメントやメダリオンをあしらい、市章である「みおつくし」をアレンジした意匠が親柱や欄干に模られている。1975年には3年間に及ぶ補修工事により戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元され、近代大阪を彩った美しい外観を保っている。
大阪会議開催の地
大阪会議開催の地
大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。
会議に至る背景
征韓論をめぐる明治6年(1873年)10月の政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは大久保だけになってしまう。
政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ改革反対の保守的な建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。
当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月、井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫・古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣も招いた。こうして大阪府第1大区(現・大阪市中央区)北浜1丁目の蟹島新地に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。
またこの背景には、井上と同じように官界を去って実業界入りしていた五代友厚の斡旋があり、五代邸は大阪会議の準備会談として使われ、大久保や伊藤らが何度も往復したという。大久保は下準備のためにおよそ一か月間もの間五代邸(現在の日本銀行大阪支店の辺りに建っていた、旧島原藩蔵屋敷跡地 )に入り、年末年始を五代邸で過ごした。他方、木戸も来阪すると五代邸に大久保を訪ね、碁を囲んだ。このことからも、両者は五代邸で囲碁を楽しんだことがわかる。五代は大久保のためには労を惜しまなかったため、大久保から五代に宛てた「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたことを想像させる。大久保・木戸・板垣の三者の思惑は全く別のものであったが、このように大久保の相談役そして、板垣退助との仲介役としてこの不一致を穏便にまとめた五代友厚らによって、大阪会議を成功へと導いた。
大阪取引所
大阪取引所
概説
諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引であると言われる。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていた。
戦後は東京証券取引所(東証)とともに日本の株式市場の一翼をなしていた。ただし、大阪証券取引所(大証)の株式市場においては、株式の電子化が進んだ結果、東京証券取引所との重複上場銘柄の多くは東証での取引が中心となり、大証では出来高が少なかったり、一日の取引が成立しないこともあった。一方、任天堂や京セラなど、京都に本社を置く企業の中には大証での出来高が東証での出来高を上回るものも存在した。
2011年以降の東証との経営統合により、日本取引所グループ(東証・大証の経営統合後に設立された持株会社)での市場デリバティブ専門取引所に位置付けられることとなった。それに伴い、旧大証の現物市場は東証に移管された一方、東証が持っていたデリバティブ市場の移管を受けた。最終的に2014年3月24日に現社名に改名している。
緒方洪庵旧宅(適塾)
緒方洪庵旧宅(適塾)
概説
適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出した。
特徴
適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。
塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。
適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。
塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである。
緒方の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた。
愛珠幼稚園
愛珠幼稚園
概要
1880年6月1日に開園した。現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史をもち、また日本でも2番目に古い歴史をもつ。現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古、また民間の手によって建てられた幼稚園としても日本最古となっている。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。園の敷地は江戸時代の銅座の跡地で、その記念碑が建つ。
大阪市立開平小学校との交流、専門家を招いての芸術文化体験、動植物の飼育栽培など、心豊かな子どもを育てることを目標とした幼稚園教育をおこなっている。また未就園児向けの保育や、夕方や長期休業中の預かり保育も実施している。
沿革
1879年に道修小学校連合町会が、当時日本ではほとんど設置されていなかった幼稚園を設立して幼児保育の効果を社会一般に知らせようと建議をおこなったことが、幼稚園設立のきっかけとなっている。準備期間を経て1880年に東区今橋5丁目(現在の中央区北浜4丁目)に開園した。1889年には大阪市の市制施行に伴い、連合町会から大阪市に移管した。
草創期の同園では、フレーベルの理論を取り入れた幼児教育がおこなわれた。また草創期には読み書きなどの教育もおこなわれたが、実践の中で幼児の発達段階にあわないことがわかり、読み書きなどの教育は短期間で中止された。明治~大正期にかけては、著名人の視察も頻繁におこなわれた。
園舎が手狭になったために1883年には今橋3丁目(現在の中央区今橋2丁目)に移転したのち、1901年に現在地に移転した。1901年3月に竣工した木造平屋建建築の園舎は、100年以上使用されている現役の園舎で、現存する幼稚園園舎としては日本最古である。園舎は当時の主任保母らの意見を参考にしながら、文部省の技師の指導の元で大阪府の技師が設計した。園舎は御殿風の和風建築物で、敷地の周囲に高塀をめぐらせていること、天井を高くとっていること、園庭と遊戯室との間に段差を設けていないことなどの工夫がされている。
大阪の町にも空襲が相次ぐなど第二次世界大戦の激化に伴い、軍需製品を製作・納入している会社が近隣にあったことから、空襲被害の際に木造園舎の火災が延焼することを恐れた会社側が、園舎の撤去願いを1945年3月末に大阪市に出した。園舎は当時から重要な教育建築物と認識されていたため、解体時期をできるだけ遅くしてもらうように園関係者が折衝したが、1945年6月には建物疎開の対象と決定した。同年8月4日に取り壊しが計画されていたが、空襲のために作業が遅れてそのまま8月15日の終戦を迎えたために取り壊しは中止され、戦後も引き続き園舎を使用している。
園舎は1999年11月に大阪市指定有形文化財に指定された。大阪市の有形文化財指定制度はこの年に始まったため、「指定第1号」のひとつともなっている。その後2007年には、岡山県岡山市の岡山市立旭東幼稚園旧園舎(1908年建築・1979年解体・1999年復元保存)とともに、幼稚園の園舎として日本で初めて国の重要文化財に指定された。
銅座の跡
銅座の跡
概要
大坂での銅の鋳造は大坂銅吹屋において行われていたが、その取引管理のため、1701年(元禄14年)に銀座の加役として銅座が設けられた。銅座役所は大坂高麗橋東一丁目両替町の大坂銀座に設けられた。1712年(正徳2年)に一度廃止されたが、1738年(元文3年)に両替町に再度銅座が設けられ、地売銅(国内向け銅)も管理の対象とした。1750年(寛延3年)に経営不振を理由として再度廃止されたが、1766年(明和3年)に北浜に三度銅座が設けられた。
現在、大阪市立銅座幼稚園が大阪市中央区内久宝寺町にあり、近隣に銅座公園がある。銅座の跡地(大阪市中央区今橋3丁目)には別に大阪市立愛珠幼稚園があり、園前に「銅座の跡」の碑が建立されている。なお、幼稚園の建物は1901年(明治34年)の建築で銅座そのものとは関係はない。
大阪商法会議所跡
大阪商法会議所跡
商法会議所(しょうほうかいぎしょ)とは、実業家の意見を集約するため明治時代に設立された任意の経済団体。
概要
1878年、条約改正交渉にあたって財界の意見集約を望む伊藤博文・大隈重信ら政府首脳と、幕藩体制時代の株仲間の廃止以後、商工業者による団体が存在しないことに不都合を感じていた実業家たちの間で商法会議所の設置構想が練られた。同年、渋沢栄一らにより東京商法会議所、五代友厚らにより大阪商法会議所が組織され、その後、兵庫・横浜・福岡・長崎など、1881年までに日本全国で34の商法会議所が組織され、政府や府県の支援を受けながら諮問の答申や商慣習の調査、商品・商況調査などの任にあたった。また、条約改正については、関税改正の基礎資料などを提供した。
ところが、商法会議所はイギリス・アメリカを模範とした任意団体であったためにその活動は地域によって差があり、活動が不振な地域も存在した。そこで政府は府県や農商務省が主導する商工会を結成して商法会議所に代わらせようとするが、一部の商法会議所がこれを拒んだために2つの組織が併存する地域もあった(東京では1883年10月に商法会議所は一旦解散されて翌月に商工会が再発足したが、大阪では商法会議所が解散を拒否した)。1890年9月12日に商業会議所条例が公布されて、法人格を持った商業会議所に衣替えした。
高麗橋
高麗橋
歴史・文化
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。
江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。
明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。
明治3年(1870)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
大阪美術倶楽部
大阪美術倶楽部
歴史
1910年(明治43年) 東区唐物町1丁目大阪商盛組合内に於いて同組合有志者が発起人となり、株式会社大阪美術倶楽部が創立した。
1911年(明治44年) 東区淡路町4丁目に約600坪の土地を購入し、同年12月工を起し約1年有余の日月を閲して、純日本式2階建家屋約350坪施工した。
創立以来当倶楽部の事業は専ら会場を貸与するのみで、書画骨董類の入札会及び交換会は組合の主催であったが、大正7年に至り入札会に限り会社の直営とした。
1928年(昭和3年) 都市計画事業の開始により、敷地の幾部を買収されるに至り止むを得ず建造物の一部を毀ち、一大改修を行い、昭和4年10月改修工事完成し社屋の面目一新した。
1935年(昭和10年) 創立25周年記念事業として、蒐集の大を以て世に聞えた鴻池、根津、大原、御三家の貴宝名什を一堂に展列し祝賀茶会を催した。
1937年(昭和12年) 北支事件の勃発に伴い、同年8月貴石貴金属製品等所謂奢侈品に対して、北支事件特別税法が公布され、更に同13年4月支那事変特別税法が施行され入札交換会に大きな打撃を受けた。
1940年(昭和15年) 奢侈品等製造販売制限令(七、七禁令)が発布され金属製美術品の販売が極めて困難となった。
1942年(昭和17年) 五都美術倶楽部の申合せにより商号を株式会社大阪美術会館と変更した。
大阪古美術報国会を結成し古美術による国威発揚に尽力した。
1943年(昭和18年) 戦時財政の膨張に伴い物品税が大幅に増徴され全く禁止的課税となり入札会等は催されなくなった。
1945年(昭和20年) 空襲で創立以来全国的な美術品の交易市場として、将又展覧会場として美術文化財の保護保存と興隆に貢献し、幾多の先輩が困難を克服し死守して来た豪華優雅な美術の殿堂は一朝にして灰燼に帰した。
1946年(昭和21年) 旧商号大阪美術倶楽部に改称した。
1947年(昭和22年) 美術界に由緒ある鴻池男爵家本邸である現在の東区今橋2丁目の土地家屋を購入し、同時に淡路町4丁目の羅災地を譲渡した。
1948年(昭和23年) 新社屋移転祝賀茶会を催した。
1951年(昭和26年) 戦後はじめて入札会を催したところ、江湖美術愛好家の好評を博す爾来年四回定期入札会を催し逐年盛況を見る。
1958年(昭和33年) 急速なる文化の向上に伴う自家用車の普及に鑑み、副業としてモータープールを企劃約40坪のパイプハウス式モータープール場を建設、更に翌34年10月鉄骨組立約160坪を増築し事業大いに殷賑す。
1960年(昭和35年) 創立50周年記念名宝展並びに記念茶会開催。
国宝8点、重要文化財16点、重要美術品9点を含む名品124点を展列し祝賀茶会を開催した。
1965年(昭和40年) 木造一部を取り壊し地上3階、地下1階延350坪の鉄筋新社屋を新築し事業を拡大する。
1980年(昭和55年) 鉄筋4階建て延470坪のビルを増築し、美術品の取引市場並びに本格的な貸し会場として事業を拡大する。
1998年(平成10年) 創立90周年記念事業として、大阪物故日本画家回顧展を開催する。
2000年(平成12年) 第1回大美特別展を大阪美術商協同組合と協同で開催。以後3年に一度開催する。
2007年(平成19年) 昭和22年より使用してきた鴻池男爵家本邸を建替し、地上3階建ての新館が完成。
2010年(平成22年) 創立百周年を迎え、記念茶会を開催。
鴻池家
鴻池家は尼子氏の家臣山中鹿之介幸盛を遠租とし、その次男幸元(通称新右衛門、新六)を始祖としている。
1578年(天正6年)幸元は遠縁を頼って摂津・川辺郡鴻池村(現・伊丹市)に住みつき、酒造りを始めた。
1600年(慶長5年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見したが、これは、下男が叱られた腹いせに濁酒のなかに灰汁を投込み、偶然に生まれたのが最初だという。
また、清酒の江戸送りの成功により、海運業にも乗り出し、鴻池家繁栄の基礎を築いたといわれる。
後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家は、幸元の八男、善右衛門(山中正成)が初代当主で、三代目の善右衛門(山中宗利)のときに飛躍をとげ、現在の東大阪市鴻池新田の開発・経営も手がけている。
この頃から、鴻池家は初期の酒造・海運業・商品取引から大名貸を中心とする両替業を専業とするようになり、ますます身代を大きくし、大坂隋一の両替商となった。
少彦名神社
少彦名神社
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町にある神社。旧社格は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。
概略
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう。
歴史
安永9年(1780年)10月、薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、京都の五條天神社より少彦名命の分霊を道修町にあった仲間会所(現在の少名彦神社所在地)に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった神農炎帝とともに祀ったことを起源とする。
天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱で仲間会所が焼失したため、天保11年(1837年)、仲間会所内に祠堂を設けて祭神を遷座した。
1906年(明治39年)、大阪府より近隣の神社に祭神を合祀するか、独立した神社として継続させるかの判断を求める旨の訓令を受け、独立した神社として祭神を護持していくことに決した。そのときに境内地の拡充、社殿・社務所を新築し、1910年(明治43年)、正遷宮を斎行するに至った。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲の被害はからくも免れた。1980年(昭和55年)10月、「少彦名神社 鎮座200年」を記念して拝殿・本殿を修復、社務所を新築し、11月22日に「二百年祭」を斎行した。これを契機に、10年に一度、式年大祭を行うことになった。2007年(平成19年)4月、薬祖講の行事(神農祭・冬至祭)が、大阪市無形民俗文化財(民俗行事)に指定された。薬祖講とは、少彦名神社を崇敬護持することを目的とした団体である。主な活動としては、神事・祭礼が円滑に運ぶように支援したりする。

江戸時代初期から商業経済中心地帯として発展した大阪・北浜。
今なお、その面影を残しながら繁栄している北浜の街を御紹介致します。
日本銀行 大阪支店
江戸時代から明治初期にかけての大阪経済
江戸時代、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本における経済の中心的な役割を果たしていました。運河が整備された「水の都」である特徴を活かし、海運・水運により日本各地から物資が集められ、商業が発展しました。また、各地の大名諸藩の多くは、現在、日本銀行大阪支店のある中之島に蔵屋敷を設け、年貢として納められた米を金銭に替え、藩の財政を運営していました。
このため、現在の銀行に相当する両替商が数多く大阪の地に集まっていたほか、堂島には米の取引所(堂島米会所)が設立されました。この取引所は、先物取引という高度な取引手法を世界でおそらく初めて導入したことで知られています。江戸時代の大阪は日本のマネーセンターでもありました。
幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨て(両替商や商人が大名に貸付けていたお金の大部分が返済されませんでした)などから、大阪経済は一時衰退しますが、その後、多くの近代企業や銀行が設立され、大阪は再び経済的な輝きを取り戻していきました。
大阪支店開設
復活を遂げた大阪は、明治10年(1877年)頃までには、工業生産額で東京の約3倍を誇る経済都市となっていました。日本銀行は、明治15年(1882年)10月10日に本店が設立されると直ちに、大蔵卿(現在の財務大臣)の松方正義に対して大阪支店の設置を願い出ました。その結果、本店設立のわずか69日後の12月18日、旧東区今橋5丁目(現在の大阪倶楽部の場所)に大阪支店が開設されました。
初代大阪支店長には、外山脩造が就任しました。外山は、大阪で経済を一層発展させるためには手形割引の普及が必要であると考え、大阪支店の手形割引レート(いわゆる「公定歩合」)を本店よりも低く設定するなどして、市中の銀行に手形割引を奨励しました。こうした施策もあって、大阪支店の手形割引量は急増し、明治17年(1884年)には、日本銀行全体の手形割引枚数の約9割、金額の約6割を占めるほどになりました。
中之島への店舗移転
現在の大阪支店は中之島にありますが、支店開設以来、2度、移転を行っています。開設当初の店舗は敷地が小さく、金庫のための十分なスペースがないなど営業上の不便が多かったため、開設から2年後の明治17年(1884年)に、旧東区大川町(現在の三井住友銀行の場所)に移転しました。その後、経済の発展とともに支店の事務量が増えていったため、2度目の移転を行うことになりました。その結果、中之島の地が選定され、明治36年(1903年)に移転しました(表紙の写真)。現在の旧館は、その時に建築されたものです。日本銀行本店の旧館と同様、明治を代表する建築家である辰野金吾の設計によるものです。
現店舗のある地は、江戸時代には水戸藩や島原藩などの蔵屋敷があった場所であり、明治に入り郵便役所(現在の郵便局)となったあと、大阪商工会議所や大阪証券取引所を設立したことで知られる五代友厚の私邸などを経て、今日に至っています。
現在の店舗の建設
大阪支店の店舗は、旧館の復元・改築工事と、同時に行われた新館の建築を経て、昭和57年(1982年)に現在の姿となりました。築後80年を経て老朽化が進んでいた旧館は、もともと取り壊される予定でした。しかしながら、当時の大阪市民や文化庁からの強い保存要請を受け、可能な限り面影を残す形で改築工事が行われました。御堂筋側から見える東、北、南側の外壁のほか、中央のドームとその両側に配置された三角屋根は、往時の姿をとどめています。
新館の設計に際しても、屋根や窓回りには旧館と同様の銅板を用いるなど、旧館との調和が重んじられました。このほか、新館正面入り口の窓には反射ガラスを使用し、旧館のドームが美しく映えるような工夫を施しています。
こうした景観維持のための取り組みが評価され、昭和58年(1983年)に「第3回大阪都市景観建築賞」を受賞しました。
大阪市役所
本庁

本庁の入居する大阪市庁舎は、大阪市の中心部、中之島に位置する。御堂筋の東側に位置し、正面には日本銀行大阪支店が位置する。市役所の東側には中之島図書館や大阪市中央公会堂、東洋陶磁美術館がある。
市役所の南側には淀屋橋が架かっており、また最寄り駅も淀屋橋駅であるため、市役所に行くことを「淀屋橋に行く」と表現されることもある。ただし淀屋橋より南側は中央区である。
現在の庁舎は1986年に完成したものである。
大阪市庁(旧庁舎)
三市特例が廃止された翌年の1899年、当時の大阪府庁舎(現在地に移転する前の大阪市西区江之子島の旧庁舎)の北側(現在は高層マンションなど)に設けられた、1912年に堂島浜(現在はNTTテレパーク堂島第一ビル)に新庁舎が建設された。
設計を公募し、10年の歳月をかけて、1921年には、中之島に庁舎が完成。塔屋までの高さ約56mと、当時は市内最高の高さだった。鉄筋5階建てで、中央にホールがあり、四方に玄関、正面玄関には4本の円柱が立ち、ルネッサンス風の塔は市の象徴となった。
1982年に新庁舎建設のため取り壊された。
半分に分けての建て替えだったため、現在でも屋根にその名残が残っている。また、市役所1階には「大阪市廳」と書かれた札が展示されている。
特徴
大阪市内の都市計画を主に進めていたのも大阪市役所である。これは政令指定都市制度を根拠としたものである。ただ、府から市への権限移譲・税源移譲が中途半端であったため、のちに二重行政の弊害を生んだ。組織の中枢となる幹部職員を京都大学、大阪大学や大阪市立大学の出身者を中心に固め、中央省庁との人事交流が少ない。そのため、「中之島モンロー主義」と揶揄されることもある。
特に、土木技術職の副市長・局長級といった幹部ポストは京都大学工学部卒業生で多くを占められている。
大阪府立中之島図書館
蔵書数は約55万冊。東大阪市の大阪府立中央図書館が一般書から学術書まで幅広い分野の本を所蔵しているのに対し、中之島図書館は古文書や大阪関連の文献、ビジネス関係分野の書籍・資料に特化している。1904年(明治37年)竣工の建物は重要文化財に指定されている。
沿革
住友家により建築、寄贈され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。
大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国の重要文化財に指定されたのはこの年である。
1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館。これに伴い、中之島図書館の一般蔵書の大半と夕陽丘図書館の蔵書約60万冊(特許資料関係を除く)を中央図書館に移設。両図書館で収集してきた内外特許資料・科学技術資料は、閉館した夕陽丘図書館の建物を流用して新設された大阪府立特許情報センターに移された。
2004年から、中之島図書館はビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始。別館では、関西大学が法科大学院のサテライト教室として「リーガルクリニック」授業を開講し、大阪府立大学大学院看護学研究科及び同総合リハビリテーション学研究科が社会人向けにサテライト大学院を開講している。 大阪市はこれまで「図書館としての機能を果たす限り土地を無償貸与する」との誓約を結んでいたが、これらの事業展開は本来の図書館から逸脱しているとして、土地使用料の徴収を開始した。
ただし、2003年から施工されていた京阪中之島線事業に伴い、同線が北区中之島1丁目地内を通過することから用地調査が行われたところ、中之島1丁目地内の地籍図が混乱しており、その中に中之島図書館が存在する場所に該当と思われる大阪府名義の「北区中之島1丁目3番」の土地が存在することが判明している。その後大阪市公文書館から市有地との交換を証明する資料が発見され、「北区中之島1丁目3番」の土地が大阪市名義である事が確定した。
建築
1904年にネオ・バロック様式で建てられた建物は、1922年に左右の両翼を建て増しし、現在の形となった。本館は大阪大空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫の増築を経て、今も残っている。1974年、本館と左右の両翼が共に国の重要文化財に指定された。
建物の改修と活用
2012年6月19日、大阪府知事の松井一郎と大阪市長の橋下徹による府市統合本部の会合で、中之島図書館を廃止することを表明したと報じられたが、図書館を管轄する大阪府教育委員会によると、今後建物をどう活用するかの案の一つとして出ただけで、実際には何も決まっていなかった。
2013年11月20日、松井知事が会見で「図書館機能を堅持しつつ、魅力あるものにする」と中之島図書館の存続を表明。2014年まで耐震補強と外壁リニューアル工事を行い、2015年4月から利用が再開された。
上記方針に基づき、図書館を中之島地区の文化ステーションとしての役割や利用者サービスを向上させるため、2015年に指定管理者制度を導入。株式会社アスウェル(大阪府羽曳野市)を選定した。雑貨や文具などを販売するライブラリーショップが充実されたほか、デンマークの郷土料理の1つであるスモーブローを提供するカフェ「スモーブロー キッチン ナカノシマ」が併設された 。スモーブローを専門に提供する店としては、西日本で最初の店舗となる。
大阪市中央公会堂
概要
大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。なお、公会堂の所在地は浜田藩の蔵屋敷跡になる。
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインを始め、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演も行われた。
日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。リニューアルの際に取り除かれた当初の意匠についても、一部は保存・活用されており、内装の一部に旧館の遺構をはめ窓のようにしてみせるなどしている。また、周辺道路と敷地を隔てる境界にも、遺構が利用されている。
2006年からは、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督大植英次がプロデュースする同交響楽団を中心とした音楽祭「大阪クラシック」の有料コンサートの会場として、毎年ホール(大集会室)と中集会室が提供されている。2010年5月1日に100年ブランドをめざして、公式ホームページが開設された。
2020年東京オリンピックの聖火リレーで、大阪府最終日の4月15日のゴール地点でセレブレーション会場となった、聖火ランナーの公募は44名に対して8395名の応募があり、倍率は約190倍であった。
大阪市立東洋陶磁美術館
概要
高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝2件、国の重要文化財13件を含む約4000点が収蔵されている。この珠玉のコレクションは、安宅コレクションを中心に、他のコレクションからの寄贈や購入を加えて、徐々にその数を増していったものである。
安宅コレクションは、大手総合商社の安宅産業および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものである。発端は、近代日本画の速水御舟の作品を収集していた演出家、文芸評論家の武智鉄二が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案。1951年(昭和26年)の同社取締役会で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議。以後、御舟の代表作である「炎舞」、「翠苔緑芝」、「名樹散椿」がコレクションに加わり、最終的には日本画30点、素描76点、計106点に上る日本最大のコレクションに成長していく。
英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、他のコレクターの名品も次々と安宅コレクションに加えていった。その総額は二十数年間で七十数億円にも上る。そのため特に初期には、世間から金にあかせて買いまくっているという批判も強かったが、実際には異なる。あくまで会社のコレクションのため、購入には月々の購入限度額が決まっており、会社の了解を取らねばならなかった。名品が出てきた時には資金を1年先、2年先まで先食いしていたのが実際の所で、これが改善されたのは会社の景気が良くなった昭和40年代後半頃だという。
安宅産業は1975年(昭和50年)に経営危機が発覚。1977年(昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併された。
伊藤忠商事が引き受けない残存財産のうち、2000億円余りを主力銀行の住友銀行(現:三井住友銀行)を含め、取引16行が合併前日に一斉償却した。また残る約3000億円に関しては、合併に先立って、受け皿会社のエーシー産業を1977年4月に設立。この折に鑑定評価額が当時で152億円にもなった約1000点の東洋陶磁コレクションも、ひとまず同社が引き継いだ。なお速水御舟の作品106点は、合併の前年9月に、一括して山種美術館を運営する山種美術財団に購入してもらっている。この東洋陶磁コレクションの帰趨については、文化庁をはじめとする関係各方面から、貴重で体系的なコレクションを散逸させることなく、保存に善処を望む要望が数多く寄せられていた。
そうした要望を踏まえ、1980年(昭和55年)3月に磯田一郎住銀頭取は公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断し、大阪市への寄贈を決めた。また市の負担を回避するために、住銀を中心とした住友グループ21社の協力のもと、1982年(昭和57年)3月までの2年間に、総額152億円を市の文化振興基金に寄付。市はその寄付金で965件、約1000点のコレクションを買い取ることにした。またコレクションを収蔵・展示するため、市は中之島公園内に美術館の建設を決定するが、その建築資金18億円は、基金への寄付金の積み立てに伴う運用利息で賄った。
詳しい経緯は、英一の側近で初代館長の伊藤郁太郎が、『美の猟犬 安宅コレクション余聞』で回想している。伊藤によると、英一は経営危機でコレクションへの発言権を失っていく最中に、「会社のためなら、安宅コレクション一切を投げ出してもよいのですよ。それで会社が救われさえすれば…」と漏らしていたという。また、美術館開館後に訪れた英一に、伊藤が「あれほど一生延命お集めになったコレクションが、人出に渡ってしまって、さぞお口惜しいことでしょう。お気落としになっておられるでしょうね、と慰めて下さる方が多いです。」と言うと、英一は「コレクションは、誰が持っていても同じでしょう」と答え、コレクションがどのような結末を迎えようが、コレクションとして続く限りその価値は変わらないという、英一のコレクターとしての境地を示している。
寄贈された安宅コレクションは965件で、その内訳は以下のとおりであった。
- 中国陶磁 144件(後漢2、六朝1、唐23、五代3、宋47、元18、明50)
- 朝鮮陶磁 793件(統一新羅時代4、高麗304、朝鮮時代485)
- その他 28件(ベトナム陶磁5、日本陶磁2、中国工芸5、朝鮮工芸10、日本工芸その他6)
朝鮮陶磁は数も多い上に作風も多様で、今日成し得るコレクションとしては歴史的変遷、陶芸技法による分類の上でもほぼ完全で、私的なコレクションとしては世界第一と言って良い。一方、中国陶磁については名品主義的で質は極めて高いが、清代陶磁が1点もないなど陶磁史的には不完全である。また、展示公開は厳選主義で行っているため、安宅コレクションは名品ばかりと思われている面もあるが、実際にはあまり人に見せたくない作品も混じっているという。
1982年(昭和57年)に美術館の開館した後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、特に1999年(平成11年)には在日韓国人実業家李秉昌からの寄贈で、多くの朝鮮陶磁の名品が所蔵された。
中之島公園
概要
大阪市の都心部、中之島の東部に位置する。周囲一帯はオフィス街で、都会の憩いの場となっている。
難波橋と阪神高速1号環状線の間にはバラの花壇が設けられ、春や秋にはバラの花が咲く。また、南北方向に水路が流れ、東西にバラ園(2009年の改修まで東側は円形バラ園)があり、ばらぞの橋が架かっている。なお、この水路はちょうど天満堀川(現在は埋立。阪神高速12号守口線)の延長線上にあたる。
天神橋より突き出た東端部は、大川を堂島川と土佐堀川に分けて尖っていることから「剣先」と呼ばれ、先端には安藤忠雄の構想による噴水が設置されている。
天神橋
概要
天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天神橋1丁目と大阪市中央区北浜東を結ぶ。中之島の拡張(後述)により、実質的には堂島川と土佐堀川の2つの川を渡る。車道は全線南行き一方通行となる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。
明治初期までは木橋だったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。1888年(明治21年)にドイツ製の部材を主に用い鋼製のトラス橋として架け替えられた。先述の童歌からもわかるように、天神橋の下に陸地はなかったが、大正時代の1921年(大正10年)に大川の浚渫で出た土砂の埋め立てをする土木工事があり、1920年代以降に上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7メートルの3連アーチ橋となった。鉄橋の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されている。
天神橋南詰には、天神橋交差点があり、ここより北を天神橋筋、南を松屋町筋という。大阪シティバスの天神橋停留所もここにある。
大江橋
概要
大阪市北区西天満2丁目および堂島浜2丁目と同区中之島を結ぶ、御堂筋(国道25号)に架かる橋である。鉄骨鉄筋コンクリート造りのアーチ橋で、橋長81.5メートル、有効幅員37.0メートル。なお、Osaka Metro御堂筋線が大江橋の地下を通過している。
沿革
歴史的には江戸時代の元禄年間、堂島の開発に伴って架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうちの1つである。1909年に大阪市北区の一帯を襲った北の大火で焼失。翌1910年に復興と市電の開通に伴い、鉄橋として架け替えられた。
現在の大江橋は、大阪市の都市計画の一環としての御堂筋の拡幅工事に伴い、1930年に着工し1935年に完成した。架け替えに先立ち、すぐ南側の土佐堀川に架かる淀屋橋とともに、1924年に大阪市の第1次都市計画事業で公募された、鉄筋コンクリート造りのアーチ橋ながら、パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第1次都市計画事業の目指す所を現代に伝えている。このことが特に評価され、2008年には「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリートの橋としては珍しく重要文化財に指定された。
水晶橋
歴史・文化
水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。
水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。
水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。
鉾流橋
歴史・文化
天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられているため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。
天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。
現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。
その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。
淀屋橋
概要
橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。
現在の橋は都市計画学者でもあった關一第7代大阪市長による御堂筋拡幅工事の一環として、1935年(昭和10年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋である。淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたものである。
パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第一次都市計画事業の目指すところを後世に伝えている。2008年(平成20年)には、「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリート橋としては珍しく重要文化財に指定された。
橋の近くには「淀屋橋港」があり、水上バス「アクアライナー」が就航している。
栴檀木橋
歴史・文化
江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、船場との連絡のために土佐掘川には多くの橋が架けられていた。栴檀木橋もそうした橋の一つであった。橋名の由来は『摂津名所図会』ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとしているが、詳らかではない。
明治になっても木橋のままであった栴檀木橋は明治18年の大洪水で流失した。再び架けられたのは大正3年のこととされる。これは明治37年に、大阪府立図書館が建てられ、明治末には大阪市庁舎の建設が決定されるなど、橋が再び必要となっていたためであろう。
その後、昭和10年に架け替えられた橋は桁の高さが一定のシンプルな美しさを強調した設計であったが、当時の設計者はこれを理想としていたようである。昭和60年9月、新しい橋に架け替えられたが、旧橋のイメージを大切にしながら橋面などは府立図書館や中央公会堂など、背景にある歴史的建築物との調和を考えてデザインされた。
また、センダンノキをモチーフにした欄間パネルが取付けられている。由来碑と大正時代の親柱は橋梁の橋詰に設置され、橋の歴史が一目でわかるようになっている。
難波橋
難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる堺筋の橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁では「ナンニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜と北区西天満を結ぶ、全長189.7m、幅21.8mの橋である。中之島の拡張(後述)により、実質的には土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
歴史・概要
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。
1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に北半分のみ鉄橋に架け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中之島を跨ぐかたちとなっている。1885年(明治18年)に発生した明治十八年の淀川洪水の際には北半分の鉄橋は被害を免れたが、南半分は木製であったために流された。
なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は中之島公園となった。
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの新橋が現在の難波橋である。
当初は難波橋筋に架かる旧橋と区別するため、堺筋に架かる新橋は大川橋とも呼ばれた。新橋は当初中之島を跨いでいなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。中之島通敷設の際に旧橋は撤去され、新橋は名実共に難波橋となった。
老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修が施され、現在に至る。
橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(=ライオンの石像、天岡均一作)が左右両側にあるため、「ライオン橋」とも呼ばれている。このライオンは天王寺動物園の当時非常に珍しかったライオンがモデルと言われている。像は左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像となっており、狛犬(狛犬はライオンがモデルといわれる)の形式を採った獅子=ライオンであると言える。これについて、江戸時代この地に白玉稲荷神社(豊国神社)が祀られていたためであるとの説もあるが、直接の関係はないとされる。相場師として成功した松井伊助の和歌山の別荘六三園には松井が複製した像があることから、松井の寄付によるとの説もあるが、子孫はこれを否定している。
像は、当時の池上四郎大阪市長が天岡均一に依頼して作られた。
中之島水上公園計画の一環として設計された事により、石橋風の外観、公園と一体となった階段、高欄の獅子像、親柱にはペディメントやメダリオンをあしらい、市章である「みおつくし」をアレンジした意匠が親柱や欄干に模られている。1975年には3年間に及ぶ補修工事により戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元され、近代大阪を彩った美しい外観を保っている。
大阪会議開催の地
大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。
会議に至る背景
征韓論をめぐる明治6年(1873年)10月の政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは大久保だけになってしまう。
政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ改革反対の保守的な建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。
当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月、井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫・古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣も招いた。こうして大阪府第1大区(現・大阪市中央区)北浜1丁目の蟹島新地に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。
またこの背景には、井上と同じように官界を去って実業界入りしていた五代友厚の斡旋があり、五代邸は大阪会議の準備会談として使われ、大久保や伊藤らが何度も往復したという。大久保は下準備のためにおよそ一か月間もの間五代邸(現在の日本銀行大阪支店の辺りに建っていた、旧島原藩蔵屋敷跡地 )に入り、年末年始を五代邸で過ごした。他方、木戸も来阪すると五代邸に大久保を訪ね、碁を囲んだ。このことからも、両者は五代邸で囲碁を楽しんだことがわかる。五代は大久保のためには労を惜しまなかったため、大久保から五代に宛てた「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたことを想像させる。大久保・木戸・板垣の三者の思惑は全く別のものであったが、このように大久保の相談役そして、板垣退助との仲介役としてこの不一致を穏便にまとめた五代友厚らによって、大阪会議を成功へと導いた。
大阪取引所
概説
諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引であると言われる。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていた。
戦後は東京証券取引所(東証)とともに日本の株式市場の一翼をなしていた。ただし、大阪証券取引所(大証)の株式市場においては、株式の電子化が進んだ結果、東京証券取引所との重複上場銘柄の多くは東証での取引が中心となり、大証では出来高が少なかったり、一日の取引が成立しないこともあった。一方、任天堂や京セラなど、京都に本社を置く企業の中には大証での出来高が東証での出来高を上回るものも存在した。
2011年以降の東証との経営統合により、日本取引所グループ(東証・大証の経営統合後に設立された持株会社)での市場デリバティブ専門取引所に位置付けられることとなった。それに伴い、旧大証の現物市場は東証に移管された一方、東証が持っていたデリバティブ市場の移管を受けた。最終的に2014年3月24日に現社名に改名している。
緒方洪庵旧宅(適塾)
概説
適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出した。
特徴
適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。
塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。
適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。
塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである。
緒方の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた。
愛珠幼稚園
概要
1880年6月1日に開園した。現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史をもち、また日本でも2番目に古い歴史をもつ。現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古、また民間の手によって建てられた幼稚園としても日本最古となっている。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。園の敷地は江戸時代の銅座の跡地で、その記念碑が建つ。
大阪市立開平小学校との交流、専門家を招いての芸術文化体験、動植物の飼育栽培など、心豊かな子どもを育てることを目標とした幼稚園教育をおこなっている。また未就園児向けの保育や、夕方や長期休業中の預かり保育も実施している。
沿革
1879年に道修小学校連合町会が、当時日本ではほとんど設置されていなかった幼稚園を設立して幼児保育の効果を社会一般に知らせようと建議をおこなったことが、幼稚園設立のきっかけとなっている。準備期間を経て1880年に東区今橋5丁目(現在の中央区北浜4丁目)に開園した。1889年には大阪市の市制施行に伴い、連合町会から大阪市に移管した。
草創期の同園では、フレーベルの理論を取り入れた幼児教育がおこなわれた。また草創期には読み書きなどの教育もおこなわれたが、実践の中で幼児の発達段階にあわないことがわかり、読み書きなどの教育は短期間で中止された。明治~大正期にかけては、著名人の視察も頻繁におこなわれた。
園舎が手狭になったために1883年には今橋3丁目(現在の中央区今橋2丁目)に移転したのち、1901年に現在地に移転した。1901年3月に竣工した木造平屋建建築の園舎は、100年以上使用されている現役の園舎で、現存する幼稚園園舎としては日本最古である。園舎は当時の主任保母らの意見を参考にしながら、文部省の技師の指導の元で大阪府の技師が設計した。園舎は御殿風の和風建築物で、敷地の周囲に高塀をめぐらせていること、天井を高くとっていること、園庭と遊戯室との間に段差を設けていないことなどの工夫がされている。
大阪の町にも空襲が相次ぐなど第二次世界大戦の激化に伴い、軍需製品を製作・納入している会社が近隣にあったことから、空襲被害の際に木造園舎の火災が延焼することを恐れた会社側が、園舎の撤去願いを1945年3月末に大阪市に出した。園舎は当時から重要な教育建築物と認識されていたため、解体時期をできるだけ遅くしてもらうように園関係者が折衝したが、1945年6月には建物疎開の対象と決定した。同年8月4日に取り壊しが計画されていたが、空襲のために作業が遅れてそのまま8月15日の終戦を迎えたために取り壊しは中止され、戦後も引き続き園舎を使用している。
園舎は1999年11月に大阪市指定有形文化財に指定された。大阪市の有形文化財指定制度はこの年に始まったため、「指定第1号」のひとつともなっている。その後2007年には、岡山県岡山市の岡山市立旭東幼稚園旧園舎(1908年建築・1979年解体・1999年復元保存)とともに、幼稚園の園舎として日本で初めて国の重要文化財に指定された。
銅座の跡
概要
大坂での銅の鋳造は大坂銅吹屋において行われていたが、その取引管理のため、1701年(元禄14年)に銀座の加役として銅座が設けられた。銅座役所は大坂高麗橋東一丁目両替町の大坂銀座に設けられた。1712年(正徳2年)に一度廃止されたが、1738年(元文3年)に両替町に再度銅座が設けられ、地売銅(国内向け銅)も管理の対象とした。1750年(寛延3年)に経営不振を理由として再度廃止されたが、1766年(明和3年)に北浜に三度銅座が設けられた。
現在、大阪市立銅座幼稚園が大阪市中央区内久宝寺町にあり、近隣に銅座公園がある。銅座の跡地(大阪市中央区今橋3丁目)には別に大阪市立愛珠幼稚園があり、園前に「銅座の跡」の碑が建立されている。なお、幼稚園の建物は1901年(明治34年)の建築で銅座そのものとは関係はない。
大阪商法会議所跡
商法会議所(しょうほうかいぎしょ)とは、実業家の意見を集約するため明治時代に設立された任意の経済団体。
概要
1878年、条約改正交渉にあたって財界の意見集約を望む伊藤博文・大隈重信ら政府首脳と、幕藩体制時代の株仲間の廃止以後、商工業者による団体が存在しないことに不都合を感じていた実業家たちの間で商法会議所の設置構想が練られた。同年、渋沢栄一らにより東京商法会議所、五代友厚らにより大阪商法会議所が組織され、その後、兵庫・横浜・福岡・長崎など、1881年までに日本全国で34の商法会議所が組織され、政府や府県の支援を受けながら諮問の答申や商慣習の調査、商品・商況調査などの任にあたった。また、条約改正については、関税改正の基礎資料などを提供した。
ところが、商法会議所はイギリス・アメリカを模範とした任意団体であったためにその活動は地域によって差があり、活動が不振な地域も存在した。そこで政府は府県や農商務省が主導する商工会を結成して商法会議所に代わらせようとするが、一部の商法会議所がこれを拒んだために2つの組織が併存する地域もあった(東京では1883年10月に商法会議所は一旦解散されて翌月に商工会が再発足したが、大阪では商法会議所が解散を拒否した)。1890年9月12日に商業会議所条例が公布されて、法人格を持った商業会議所に衣替えした。
高麗橋
歴史・文化
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。
江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。
明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。
明治3年(1870)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
大阪美術倶楽部
歴史
1910年(明治43年) 東区唐物町1丁目大阪商盛組合内に於いて同組合有志者が発起人となり、株式会社大阪美術倶楽部が創立した。
1911年(明治44年) 東区淡路町4丁目に約600坪の土地を購入し、同年12月工を起し約1年有余の日月を閲して、純日本式2階建家屋約350坪施工した。
創立以来当倶楽部の事業は専ら会場を貸与するのみで、書画骨董類の入札会及び交換会は組合の主催であったが、大正7年に至り入札会に限り会社の直営とした。
1928年(昭和3年) 都市計画事業の開始により、敷地の幾部を買収されるに至り止むを得ず建造物の一部を毀ち、一大改修を行い、昭和4年10月改修工事完成し社屋の面目一新した。
1935年(昭和10年) 創立25周年記念事業として、蒐集の大を以て世に聞えた鴻池、根津、大原、御三家の貴宝名什を一堂に展列し祝賀茶会を催した。
1937年(昭和12年) 北支事件の勃発に伴い、同年8月貴石貴金属製品等所謂奢侈品に対して、北支事件特別税法が公布され、更に同13年4月支那事変特別税法が施行され入札交換会に大きな打撃を受けた。
1940年(昭和15年) 奢侈品等製造販売制限令(七、七禁令)が発布され金属製美術品の販売が極めて困難となった。
1942年(昭和17年) 五都美術倶楽部の申合せにより商号を株式会社大阪美術会館と変更した。
大阪古美術報国会を結成し古美術による国威発揚に尽力した。
1943年(昭和18年) 戦時財政の膨張に伴い物品税が大幅に増徴され全く禁止的課税となり入札会等は催されなくなった。
1945年(昭和20年) 空襲で創立以来全国的な美術品の交易市場として、将又展覧会場として美術文化財の保護保存と興隆に貢献し、幾多の先輩が困難を克服し死守して来た豪華優雅な美術の殿堂は一朝にして灰燼に帰した。
1946年(昭和21年) 旧商号大阪美術倶楽部に改称した。
1947年(昭和22年) 美術界に由緒ある鴻池男爵家本邸である現在の東区今橋2丁目の土地家屋を購入し、同時に淡路町4丁目の羅災地を譲渡した。
1948年(昭和23年) 新社屋移転祝賀茶会を催した。
1951年(昭和26年) 戦後はじめて入札会を催したところ、江湖美術愛好家の好評を博す爾来年四回定期入札会を催し逐年盛況を見る。
1958年(昭和33年) 急速なる文化の向上に伴う自家用車の普及に鑑み、副業としてモータープールを企劃約40坪のパイプハウス式モータープール場を建設、更に翌34年10月鉄骨組立約160坪を増築し事業大いに殷賑す。
1960年(昭和35年) 創立50周年記念名宝展並びに記念茶会開催。
国宝8点、重要文化財16点、重要美術品9点を含む名品124点を展列し祝賀茶会を開催した。
1965年(昭和40年) 木造一部を取り壊し地上3階、地下1階延350坪の鉄筋新社屋を新築し事業を拡大する。
1980年(昭和55年) 鉄筋4階建て延470坪のビルを増築し、美術品の取引市場並びに本格的な貸し会場として事業を拡大する。
1998年(平成10年) 創立90周年記念事業として、大阪物故日本画家回顧展を開催する。
2000年(平成12年) 第1回大美特別展を大阪美術商協同組合と協同で開催。以後3年に一度開催する。
2007年(平成19年) 昭和22年より使用してきた鴻池男爵家本邸を建替し、地上3階建ての新館が完成。
2010年(平成22年) 創立百周年を迎え、記念茶会を開催。
鴻池家
鴻池家は尼子氏の家臣山中鹿之介幸盛を遠租とし、その次男幸元(通称新右衛門、新六)を始祖としている。
1578年(天正6年)幸元は遠縁を頼って摂津・川辺郡鴻池村(現・伊丹市)に住みつき、酒造りを始めた。
1600年(慶長5年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見したが、これは、下男が叱られた腹いせに濁酒のなかに灰汁を投込み、偶然に生まれたのが最初だという。
また、清酒の江戸送りの成功により、海運業にも乗り出し、鴻池家繁栄の基礎を築いたといわれる。
後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家は、幸元の八男、善右衛門(山中正成)が初代当主で、三代目の善右衛門(山中宗利)のときに飛躍をとげ、現在の東大阪市鴻池新田の開発・経営も手がけている。
この頃から、鴻池家は初期の酒造・海運業・商品取引から大名貸を中心とする両替業を専業とするようになり、ますます身代を大きくし、大坂隋一の両替商となった。
少彦名神社
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町にある神社。旧社格は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。
概略
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう。
歴史
安永9年(1780年)10月、薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、京都の五條天神社より少彦名命の分霊を道修町にあった仲間会所(現在の少名彦神社所在地)に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった神農炎帝とともに祀ったことを起源とする。
天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱で仲間会所が焼失したため、天保11年(1837年)、仲間会所内に祠堂を設けて祭神を遷座した。
1906年(明治39年)、大阪府より近隣の神社に祭神を合祀するか、独立した神社として継続させるかの判断を求める旨の訓令を受け、独立した神社として祭神を護持していくことに決した。そのときに境内地の拡充、社殿・社務所を新築し、1910年(明治43年)、正遷宮を斎行するに至った。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲の被害はからくも免れた。1980年(昭和55年)10月、「少彦名神社 鎮座200年」を記念して拝殿・本殿を修復、社務所を新築し、11月22日に「二百年祭」を斎行した。これを契機に、10年に一度、式年大祭を行うことになった。2007年(平成19年)4月、薬祖講の行事(神農祭・冬至祭)が、大阪市無形民俗文化財(民俗行事)に指定された。薬祖講とは、少彦名神社を崇敬護持することを目的とした団体である。主な活動としては、神事・祭礼が円滑に運ぶように支援したりする。